2012年8月24日金曜日

『UFOキャッチャー』 と、NetBiz


『ネットビジネス』 だって、やっぱ “ビジネス” なんだから。せめて、仕事をする気で取り組まないと、稼げるはずがないんじゃないでしょうかね~? というお話。

僕の住んでいる町の郊外には、福岡から長崎につながる幹線道路がある。つまり“バイパス”ってやつなんだけど、この道を車で走っていると、やたらと目につくのが“パチンコ屋さん”なのね。
夜ともなれば、テカテカぴかぴか…。道路ぞいに立ちならぶ“大きなお城”みたいな店舗からは熱気がむんむん。店の外まで商売繁盛の気配がこぼれてる。
もちろん、広々とした駐車場には、空きスペースもないほど車がいっぱい。「たぶん、仕事帰りの人たちが遊んでるんだろうな。」 って思いながら、いつもぼ~んやりと眺めてるわけ。

“『シャッター商店街』の国” でも書いたばかりの、いまや日本中が“ファスト風土化”してしまったようで泣けてくる光景に思えて。

繰り返しになっちゃうけど、“ファスト風土” っていうのは、三浦展(みうらあつし)氏が名づけた見事な造語。『はてなキーワード』 からそのまま引用すると・・ “地方社会において固有の地域性が消滅し、大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、ファストフード店、レンタルビデオ店、カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並ぶ風景が全国一律となったことをさす” らしいんだけど、まさにドンピシャ。“ファスト風土”なんて、質と実とが一体となった 『ナイスなネーミング』 だよなぁ~と、いつもホレボレしてしまうわけだ。

戦後の大人たち (僕のいうHDVの世代) が作りあげた文化は、子どもたちから居場所を奪ってきた。そして、遊ぶ場所を失った子どもたちは、“遊びやケンカにもルールがある” ってことを学ぶ機会を失ったまま、やがて大人になる。

そのせいだろうか?『ネットビジネス』に興味をもつ人の多くが “ビジネス” をまるで、パチンコかUFOキャッチャーをするみたいな感覚で見ているように思えるのね。
もちろん、子どもだけではなく社会人となった大人たちだってそう。ゲーム感覚で 『ネット』 と 『ビジネス』 を捉えてるものだから、ネットビジネスに対して怪しいイメージをもってしまう。・・だから、「ネットで仕事をするのは危険です。」みたいな本末転倒の発言を会社で、職場で、会議の席で言葉にしている。

これじゃあまるで、成功者の言葉でさえ・・
「お前が “負け組” なのは、貴重な時間を “UFOキャッチャー” なんかにウツツをぬかしていたからだよ。私を見なさい。いま、こうやって “勝ち組” になれたのも、一所懸命な思いで、必死になって “パチンコ” をやり続けたからなんだ。…君は稼ぐ方法を間違っている。」 ぐらいにしか聞こえやしない。

これじゃぁ、大人の言葉だからって 説得力も何もあったもんじゃない。
冗談じゃないよ~、まったく・・。

ほんのすこし昔に “グローバル化” を歓迎していたのは誰だった?
インターネットは怪しいけど、パチンコは “みんながやってる娯楽” だからホントに健全?
それって 「ネットが分からない」「難しいことはイヤだ」「楽して稼ぎたい」っていうのと何が違うの?
「まったく、いまの若いもんは…」なんて、本当に言えるのかな・・? さらに、疑問は尽きない。

きっと、大人も子どもも、娯楽と仕事の境界を見失っているに違いないんだね、とは思ってみても結論なんか出ない。

こんな時、過ちを指摘し、正しい方向に導いてくれる存在を、ビジネスの世界では『メンター』と呼び、そういった 『メンター』 の指導を受ける人たちも、実は少なくないわけだ。
特に、最近のネットビジネス業界では 『メンター』 という職種(?)が大量生産されているようで、「情報ビジネス」=「メンタービジネス」 とでも言いたくなるような活況を呈しているようにも聞く。が、果たしてそんなにたくさんの 『メンター』 がいるのかどうか?
僕の知る限り、本物のメンターって 決して表に出ることがないと思うんだけどね。 ま、いいです。

確かに、日本でも昔から 『メンター』 の存在は重要だったし、『メンター』 なくして成功はあり得ないっていうくらい “ありがた~い存在” だと考えられていたわけ。だから、心から尊敬できる 『メンター』 に出会えただけでも、人生の90%は成功したも同然だと伝える書物だってたくさん存在する。

ただし、僕らの国では、そういった人生の指導者のことを 『メンター』 とは呼ばず 『師』 と呼んできた。

・・だから、僕もメンターとは言わずに “師匠” と呼ぶ。


いま、手元に平成6年(1994年)10月に師匠が書いてくれた文章がある。
この場が適当かどうかは分からないけれど、オープンカレッジメンバーさんの参考のために、その一部を転載しておくことにする。・・正真正銘、僕と師匠のやり取りの一部だ。

ものごとの解釈というものは、非常にむつかしいものだ。その人が悲観主義者か楽観主義者かでも違うし、心を主とするか、物や金を主とするかでも違ってくる。
特に困るのは、ひとつの“宗教”や“イデオロギー”に固執しているとなると、全くもって救いようがないのである。 
日本のある宗教教団では、悪いことがあると、すべて 「信心が足りない」「あがりが少ない」 のひと言で押し付けて、信徒の逃げ場がないようにして、心も金も搾(しぼ)りとっている。 
小生(私、自分自身。ここでは師匠)の方より見れば、そんな宗教らしきものにとらわれ迷っているから、類は類を呼ぶという諺(ことわざ)どうり、類似の暴力団まがいの人物や会社の働きかけから逃れられなくて、禍事(まがこと、良くないこと)が多くなっているのである。
そこの所がわからないから逆の方向に、つまり、より悪くなる方向に引きずり込まれていくのである。正真の信仰というものが、まるでわかっていない。大衆心理操作(マインド・コントロール)というものの“カラクリ”にはまりきっているのである。
こうした巨大集団の動きは別としても、個人としての物事の考え方、とらえ方、行動のやり方にも、それぞれ人によって特徴があるし、高下・軽重・尊卑が生じるのは止むを得ない。…個人のアイデンティティーの問題だからである。 
また、良い悪いというものを選択するのは“個人の自由”であり、また人間の自由意志として神より与えられた“唯一の自由”があるから、個人差が生じるのである。
こういったことまでも「画一化しよう」「平均化しよう」とすることを民主化だ、などと言いだすのは、人間の神に対する越権であり、傲慢である。 
高等教育の平均化などというバカげた平等論が、高等教育荒廃の一因(いちいん)であることも事実である。 
ツキジデンス(B.C.460~400年頃)という古代ギリシャの歴史家がいた。
ペロポネソス戦争を書いた彼の歴史書は、世界ではじめての“真に学問的な歴史書”として高く評価されている。アテネの人である。
「事件の目撃者たちが話すことは、同一の事件についても同じではなく、どちらに好意を持つかにより、また記憶により異なる。」…つまり、同じものを見ても聞いても、述べる感想はそれぞれ違うものだということを書き残している。 
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の作品の中の 『藪(やぶ)の中』 を読むと、実に見事にこうした事情を文学化していると思う。さらに、例えば・・ 
3人の男が奈良の大仏を見た。3人はそれぞれに大仏の巨大な “左右の手のひら” に目を止めた。「右手で断(ことわ)りながら、下から そっと左手を出して要求している。ふん!よくあることサ。」とお役人。
「いや、そうではない。左手は求め、右手は拒(こば)む。…人間の心理は永遠の矛盾(むじゅん)であると示しているのだ。」と心理学者。
そのとなりで “相撲(すもう)取り=力士” が、「右手をハスにしながら左手で軽く前みつを狙う。なるほど!これだこれだ。」と感心している。
歴史とは、意外とこうした面もあって語られ創作されているのかも知れない。日本の戦後の歴史でさえ明確でない所が多すぎるのであるから、押しを強く訴えるような、声のバカデカイ主張が突出すると、それが歴史になってしまう。 
ド・ゴールの “ナチからのパリ解放神話” もそれであろう。…まさに世の中は “藪の中” なのかも知れないね。』

・・師匠の言葉はありがたい。

道路わきの景色に振りまわされるのを止めよう。
“目的地” が分かっていれば、道は一本、ただ進むだけだ。

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