2012年9月30日日曜日

『儒教の毒』

孔子様といえば聖人君子の代表格のような人物だが・・
▲孔子さまの説く聖人君子像とは?
孔子が人肉を食した。・・というのは有名な話。また、いかにすぐれた “教え” であっても、ひとつの事がらを “絶対善” にしてしまうと、往々にして人間は “愚劣な行為” を大マジメな顔で行なうことが多いんだよねw。

・・と、名著 『儒教の毒』(松村 暎著/PHP文庫刊) は語りかける。

著者の松村暎(まつむらえい)氏は、慶応義塾大学の名誉教授で、当然のことながら、中国文学に詳しい。

その松村氏が、儒教は “毒” とまでいうのだから傾聴に値する。

日本に根深く根を下ろした 『儒教』 という思想が、日本文化の中で “善” の方向性を固定化し、何が何でも正しくなければ・・的な正義論をこしらえてきたのではないかと、この本は、タブーを恐れず、舌鋒(ぜっぽう)するどく指摘している。

たとえば、それは、こんなふう。

ある人が、日本の優れたところのひとつとして、国土の70パーセントを森林が覆っていることを挙げていた。 
彼によると、日本には、山にも川にもいたるところに神様がいる。山の木一本を伐(き)るにしても、そこの神様のお許しを得て伐っている。そして伐ったらまた植えておくのである。そうやって償(つぐな)っているのだ。こういう文化だからこそ日本は緑に恵まれている。この世界に冠たる状況は日本のこういう文化に根ざしているのだ、と言っていた。
なるほど、かつての日本はそうだったろう。しかし、今の日本の実情は違う。われわれがやたらと外材(外国の木材)を使うのは、日本の木を大事にしているからではない。日本では人件費が高くなってしまって、国内の木を伐りだすには費用が嵩(かさ)む。それにくらべ、外材のほうが安いから外材を使うのである。だから森林の手入れが行き届かず、荒れてしまって、今やそのことが問題になっているくらいである。 
ゴルフ場をつくるために平気で自然を破壊し、農薬で環境を汚染しても儲かりさえすればいいというのが、われわれの悲しい特性ではないのか。(同上)

まことに正しいご指摘ではないか。

数年前、僕も林業に関わる方から相談を受けて、コストの合わない山林開発をどのように進めるべきか意見を求められたことがあって、ほぼ同様の話をしたことを思い出す。


いまや、山林と海洋環境の関連性については、多くの人が “エコロジー” がどうたらと指摘するが、実際に山の木を大切に思い、国の資源だと真剣に考えている人がどれほどいるか?

せめてもの事として、一時期は近所の子供たちを集めてきては、カナダ在住のアニメーション作家 “フレデリック・バック” の短編映画 『木を植えた男』 の上映会もしていたが、最近では “防犯意識の高まり” があるそうで、近所の人でさえ、子どもを大人と遊ばせようとはしない。・・そういうわけで、ささやかな上映会も とんとご無沙汰である。


以下、思いつくまま 『儒教の毒』 より抜粋する。

『中国を見る場合、決して一面だけで捉えてはわからない。今の中国の実情を見てもわからない人が、中国の歴史を見てわからないのは当然である。』 
『民主主義というのは話し合いであるというよりも、討論であり、論争である。そして、どちらの方がより多数の賛成者を獲得するかというのが基本であり、少数派も決定後は多数派の方に従うというのが民主主義のルールである。ところが日本では、議会が多数決で決まると、よく数の横暴だと言う。これでは民主主義が成立しなくなる。そういう点で、日本の民主主義は特異性を持っているのかもしれない。この特異性は、やはり儒教から来ていると思う。』 
『孔子は法治を否定している。当時、法家とは主張を異にしていた。徳のある人が徳によって治めることを主張した。徳というものは、人についていうのだから、人治ということになる。人治となると、そこに権力者の恣意(しい)というものが入ってくる。孔子にはそういう落とし穴が見えなかったのであろうか。「人間らしい政治」などというのも、言うだけなら、いくらだって言える。具体策を見なければ賛成できない。』

などなど・・。現今の情勢下でも 有益なヒントが随所に見られる。

御時間があれば、松村氏の 『儒教の毒』 をご一読になって、脳ミソの “サビ落とし” をしてみてはいかがだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿

▼あなた自身の 「問題」 や 「テーマ」 についても、読者とシェアを。