2012年9月12日水曜日

“日本維新” のその先・・

▲本居宣長(もとおりのりなが)
1730.6.21. ~1801.11.5.
『民主党代表候補公開討論会』 の中継を見て、隣国の動きをネットでパラパラと検索。・・その後、各界識者の論説めいた説教を読み、“2ちゃんねる” もひととおり眺め、ため息がひとつ。

気分なおしに “オルテガ” の言葉に耳を傾けてみるが・・ため息は止まらない。あげくには “小中学生の自殺が年間200人” の記事が目にとまり、思わず “めぐみさん” のご両親の顔を思い出した。

 「こりゃ、マズイ」 ・・と、心の底でつぶやく自分がいる。


このブログでは、ネットを使ったビジネス関連の記事を中心に書いているが、たまには日本についても思うところを自由に書いている。そうすることが “正常なビジネスマインド” だと信じるからだ。

いわゆる “稼ぐ系の先生” が、もう少し この国のことについて語ってくれれば、多少は気もおさまるのだろうけど、今のところ、そんな気配もない。

大手メディアは言うに及ばず、SNSもブログもメルマガも、書籍もCDも何もかも・・、稼ぎ方を指導する先生は “稼いだ後の人生や幸せ” について、これといったヒントは与えてくれないらしい。

「無視の構造」は、たしかに日本文化の根本構造であり、もっともすぐれた特質をなしているものである。けれども、そこには底知れぬ 「おぞましさ」 が、ぴったりと背中合わせになって張りついている。宣長には、それが見えてしまったのである。 
宣長が漢意(からごころ)という言葉を語るとき、何にも増して強く響くのは、そこに感じ取られている 「おぞましさ」 である。それは、自らでないものを自らと取り違えて生きることの醜(みにく)さ、とでも言うべきものであり、ひとたびそれに気付いてしまったならば、二度とその中で息をするに耐えない類の醜さなのである。 
『 からごころ 』(長谷川三千子著/中央公論社刊) より引用

無意識のうちに、稼ぐことに対して罪悪感をもっている人がいる。また、その反対に、稼ぐことを自分の能力の証(あかし)だと信じ、収入の低い他人を見下す人も大勢いる。・・この両者は、たぶんお互いに相手の “価値観” や “人生感” を理解することが出来ないだろうし、それぞれにお互いを “醜悪” で “おぞましい” 存在だと感じているのではないか、と思うことがある。

腹を割って、ぶっちゃけ本音で語ってしまえば、どちらも片寄った考え方だ。「経済を立て直せ」、「スキルを磨け」、あるいは 「稼ぐ方法教えます」 という立場にいる人ならば、一歩進んで “正しい金の使い方・金の活かし方” までフォローすべきだと思うのだけど、いかがなものか。

たとえば今、「日本国憲法」の内にあるおぞましさなどというものは、人の目に露わ(あらわ)になってはいない。いわゆる憲法論議と言われているものは、まだ本当の憲法論議ではない。第九条をめぐっての今のところの議論も、むしろ、止む(やむ)に止まれぬ現実の出来事に付随しておこる、実際的な議論と言える。 
あるいは、それは、法律学者や政治学者が その成り立ちや手続きをめぐって繰り広げる 「専門的」 の議論を出ていない。 
けれども、いつかは、この憲法全体を貫(つらぬ)く精神のおぞましさ、あるいはむしろ、全体を貫く “精神の無いこと” のおぞましさが、人の心を蝕(むしば)み始める時が来る。その時にどうしたらよいのか、その時 我々はどう生きたらよいのか・・ 我々には まだ全くその備えが出来ていない。考えれば身の毛がよだつほど、全く出来ていないのである。 
(同上)
豊かさ、裕福さを手に入れたなら、一刻もはやく日本を離れなさい。日本を捨てて 海外に移住しなさいと、自称億万長者たちが得々と語っているが、これは何の流行か。

まるでそれは 「稼いだ人から早く日本を捨てなさい。それが正しい選択です」 と無言のうちに語っているかのよう。日本を見捨て、この国の先人たちが築いた歴史を捨て、誇(ほこ)りを捨てなさい。・・それが、富裕層となった “国際人” がなすべき当然の義務ですからね、と僕には聞こえるのだけど。

問題の本質は “自分たち自身にある” ことが自覚できない人たちは、たとえば、異常なほど海外ブランドに憧れたり、国際ユダヤの陰謀論に激怒してみたり、あるいは、おたくの世界に浸(ひた)って夢想の世界に遊んでみたりと、この国に希望を見つけることが出来ない若い衆が、社会的成功者にちょっとしたジェラシー(嫉妬)も感じながら、激しくマスターベーションに耽(ふけ)る気持ちが見え隠れするようで、これまたやけに苛(いら)立たしい。

なぜ我々は我々自身を見ることを恐れるのか、その「なぜ?」の中をまっすぐに底まで見抜くことが必要である。 
いま世に出ている多くの日本論は、その為にこそ役立てられるべきであろう。多くの人々の模索と探求は、今はまだ一見とりとめがないように見えても、次第に、霧(きり)の中からものの姿があらわれ出てくるように、日本文化という、あの “メビウスの輪” の全体像を描き出すに違いない。 
そして、それがはっきりと人の目に見えるようになったときに、我々は漢意(からごころ)のあのおぞましさを克服して、しかも、なおかつ、本来の “やまと魂(たましい)” ・・すなわち、しなやかで靭(つよ)い心を持つことができるようになるはずなのである。 
(同上) 

一部、“旧仮名遣い” を “現代仮名遣い” に書きかえ、引用符を補足しつつ、長谷川女史の 『からごころ』 第7版(2004年)から引用させて頂いた。

嘆(なげ)き悲しんでいる 時間はない。


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1 件のコメント:

  1. 稼ぎ方を指導する先生、本当に稼いだ後の人生や幸せについて、これといったヒントは与えてくれないですね。
    稼ぎ方すら教えてくれない先生もあります。
    稼ぐ系のノウハウ以外のもっと大切な知識やスキルについても指導もとっても大切なものだと考えます。
    最近はやりかどうかわかりませんが、弁護士や司法書士の先生、借金問題を解決してくれますが、その後の人生については何も見てくれません。だから何度も失敗する人、人生をあきらめる人は絶えないんですよね。
    やまと魂はどこへ行ってしまったのでしょう。

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